全国治水期成同盟会連合会の創立とその背景

全国治水期成同盟会連合会について
平成10年11月発行の『創立五十年史』から抜粋  

創立とその背景

1.はじめに

 昭和20年(1945)8月15日、3年8ヶ月にわたった太平洋戦争は、我が国の敗戦で終結した。満州事変から日中戦争へ、そして太平洋戦争へと引き続いた15年にわたる悲惨な戦いに終止符が打たれ、我が国は、明治時代および満州事変以降領土としてきた満州や台湾等の外地を放棄することになり、ここに大日本帝国は崩壊したのである。
長期にわたる戦争により、我が国土は河川をはじめ山林等は荒廃の一途をたどり、また、戦災によって、京都、奈良、弘前を除いた全国119の大都市が灰燼に帰し、250万戸余の建造物(うち200万戸余は一般住宅)が消失、900万人以上の市民が家を失った。
軍需工場の解体閉鎖に伴う離職者等により失業者は500万人にも達した。さらに、旧軍人復員者および旧日本領土からの引揚者等700万人を超える人々を迎え入れ、我が国の人口は激増した。これらの人々に職業と食料を与えることは誠に至難なことであった。
戦火を免れ残存した生産設備も稼働できるものは少なく、さらに、生産するための原材料および動力源が乏しいことに加えて、技術力の低下と食料不足が生産の大きな障害となった。
太平洋戦争により我が国は、経済安定本部の資料によると、建物、鉄道、電気、ガス、水道設備等の物的資産の全てである国富の被害総額は、終戦当時の価格で、653億円余、被害率では25.4%が失われたと報告されている。我が国は太平洋戦争によって国富の4分の1を失ったことになる。
戦争遂行に伴う軍隊への招集と徴用による人手不足は、田畑を荒廃させていった。20年は冷害に加え、枕崎台風および阿久根台風による被災地が稲作先進地域に集中したこともあって、稲作は明治35年(1902)以来の悪い出来となり、食糧危機にますます拍車をかけることとなった。水害は食糧確保の面からも社会的な強い関心を呼んだのである。
22年9月に上陸したカスリーン台風により、利根川および北上川を中心とした大規模な洪水が発生し、死者・不明者は1930名に達する水害となった。北上川は翌23年のアイオン台風による洪水の時にも、死者・不明者838名に上がる水害に見舞われた。
国民を苦しめたのは自然の猛威のみではなかった。戦争遂行のために巨額の赤字国債が発行され、終戦後の日銀借入による銀行貸出も急増した。これら過大な貨幣購買力が極度に不足した物資や食糧を求め、敗戦とともに極度の悪性インフレが猛威をふるい、小売物価は3倍に跳ね上がった。駅前や焼け跡には、闇市と呼ばれた露天が軒を連ね、戦時中国民の目の前から消え去った品物が多く並べられていたが、それらの値段(闇値)は配給用の公定価格の30倍から40倍の高値であった。
21年8月には経済統制の総合企画官庁として、戦後史上最も強力な官庁といわれた経済安定本部が設置され、同年9月閣議決定された「公共事業処理要綱」により、予算の執行はすべて経済安定本部の認証を受けることとされた。
経済安定本部は基本的経済政策の企画、総合調整を行うとともに、乏しい資源を統制方式により重点的に配分し、生産復興を図りつつインフレを抑制していく使命があった。22年度予算は、政府施策の一切を石炭、鉄鋼等の生産に集中するいわゆる傾斜生産方式に重点をおいて編成された。
20年以降、相次いで我が国を襲った枕崎台風、南海地震およびカスリン台風等による災害に鑑み、従来の失業対策、石炭、電力の確保等、即効的生産効果をねらった事業のほかに、災害復旧事業および地山治水事業等、国土保全事業も行われるようになった。
このような中、内務省が22年12月31日をもって廃止解体された。翌23年1月1日、戦後の荒廃した国土の復興と新たな発展を期し、経済成長、国民生活基盤の整備および国土の保全開発等を総合的に推進する組織として、建設院が総理庁の外局として設置された。同年7月建設省設置法の制定により建設省に昇格した。
(注)経済安定本部は、臨時官庁として2年間の存続が予定されていたが、講和独立後の27年7月までの6年間存続し経済審議庁に改められた。

2.創立の背景

戦争遂行による軍需優先政策により、国土は荒廃し、空襲等による戦火により焦土と化した我が国土は、これまでの空襲に代わり自然の猛威に襲われた。終戦直後の20年9月の枕崎台風、10月の阿久根台風、21年12月の南海地震、22年9月のカスリーン台風による利根川の堤防決壊、23年のアイオン台風による北上川の洪水がそれである。これらの自然の猛威が相次いで我が国土を襲い壊滅的ともいえる被害を生じせしめた。
後の建設事務次官から参議院議員、全国治水期成同盟会連合会第6代会長となった米田正文は、全国治水期成同盟会連合会(以下「全水連」と略称する。)の創立の動機について、次のように回顧している。
「昭和23年、建設省の前身である建設院が発足し、私が初代水政局治水課長に就任した。終戦直後であり、衣食住は極度に窮乏しており、『国破れて山河あり』という言葉があるが、当時の山河は、枕崎台風、カスリーン台風等の大型台風の相次ぐ来襲によって壊滅的な被害を受け、国土の保全と国民生活の立ち直りは、当時の政策の急務中の急務であった。河川保全の衝にあたる治水課は、いかなる対策を立て、それを進めるべきかに苦慮したものである。
私は、これをは、ひとり建設院のみの力ではとうてい解決できる問題ではないと考え、方法の一つとして、各河川ごとに組織されている期成同盟会の総力を結集し、一大国民運動を展開することが必要であると痛感した。そこで、各河川の期成同盟会の組織を結集して連合会を結成する案をつくり、水政局長および事務次官等に相談し、快諾が得られたため、全国の河川の期成同盟会有力者に参集を願い、この案を諮ったところ全員の大賛成を得てその結成が決議された。
ただちに、会長に安井誠一郎東京都知事を、役員に各地方から有力な代表者を選任して、治水促進運動を展開したのが本会のスタートであった。」(全水連機関誌『治水』昭和43年10月発行から要旨)。

3.全水連の創立と活動

以上のような経緯から、昭和23年(1948)3月7日、東京都千代田区永田小学校において、全国治水期成同盟会連合会結成総会を開催し、「本会は治水事業の実施を強力に推進するための挙国運動を以て目的とする」とした14条からなる全水連規約を議決した。
会長に安井誠一郎東京都知事、副会長に檜山袖四郎広島県議会副議長、金森誠之工学博士(元内務技師)が選出され、ここに治水事業の推進活動に大きな期待を担って全水連が創立されたのである。
長期にわたる戦争遂行のため我が国の財政は軍需優先となり、戦争末期には国土保全事業はそのほとんどが休止の状態におかれていた。このため各河川は荒廃の極みに達し、洪水防御の機能はことさらに低下していたものと考えられる。
終戦直後の9月と10月に二つの大きな台風(枕崎および阿久根台風)が我が国土に上陸、とくに、枕崎台風は、原爆による被災直後の太田川(広島市)を中心に大きな災害の傷跡を残した。その後も自然の猛威は連年にわたり我が国土を襲い、そのたびごとに多くの犠牲者を出した。
このような中、全水連では、創立の翌年2月、全国から治水関係者ら約200名が参加して、第1回全国治水大会を東京都において開催した。抜本的な治水対策の確立とその促進のため、「河川予算1000億円の確保」等を決議し、総理大臣はじめ関係大臣、GHQ(連合軍総司令部)高官等に陳情した。
また、創立1周年を記念して機関誌『治水』が発刊されるなど、本格的な活動を始めたのである。
それから50年の歳月が経ったが、その間、各地において発生する激甚な災害に対する経済性を重要視した画一的な河川整備の時代、高度経済成長に伴う河川流域の著しい情勢の変化、国の財政再建政策による公共事業費の抑制、自然環境保全への世論の高揚等、これら社会経済の変遷に対応してきた河川行政の戦後史は、激動の昭和時代から平成の今日に至るまで、河川行政と共に歩んできた全水連の歴史でもある。

 

第1回全国治水大会決議文

 地山、治水の公約を実行せよ
洪水の脅威に曝されつつある吾等9千万民は、声を嗄らして河川修復の急を訴えることここ1年、その間歴代政府は何等積極的施策をなさず、僅かに物価水準の高騰に伴う河川予算の自然増を以て之を糊塗す。
為に水害は激増の一途を辿り、此の儘放置せんか、我国食糧政策に大破綻を招来すること必至にして、国家の再建亦企及し能はず。
今次総選挙により、漸やく政局安定し、力強き新政府の発足を見る、吾等の期待や又大なり。
政府は速やかに抜本的治水事業を断行し、以て水害の根絶を期すべきである。右決議する。

昭和24年2月18日
全国治水期成同盟会連合大会